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第四話 弘法大師との出会い

 昨夜は、冬の高野山の習慣であるこたつ布団で、善信和尚とひとつのこたつに共に脚を入れて寝た。慎也は、和尚の心地良い寝息をそばにしながら眠れない一夜を過ごした。朝六時、若い僧侶が入浴するように案内に来た。今日得度を受ける高野山の前官職である上田龍俊阿闍梨の子息らしい。桧風呂には香袋が浮かんでいて、いかにも上品であり、身を入れると神々しい気分になってくるのである。風呂から上がると白衣を着て、さっそく得度式の行われる本堂に導かれた。寝不足の慎也には、時はまるで夢の中のできごとのように、ふわふわした意識の中で悠々と進んでゆく。ひとつだけ感じているのは、「時代をさかのぼって旅している自分」ということである。昨夜から、洋服を着た人に会っていないし、ソファーやじゅうたんの部屋がない。新聞もテレビもない。食事はお膳で運ばれ、料理もごま豆腐や味噌汁や煮物で、肉や魚がない。すべてが和式の世界であることが、かえって異様な風景に写るのは、慎也の世代では当然のことかもしれない。そこはまるで、戦国時代や江戸時代の風景がそのままなのである。タイムマシンに乗って数百年前の日本に旅しているような気分を慎也は味わっていた。

 得度式は朝早くから執り行なわれた。慎也は夢うつつの中で、ほとんど何があったのか定かではない。確か「なんじ殺すなかれ。よく保つやいなや。」と導師が問うのに対して「よく保つ。」といったふうに、戒律をいくつか誓ったこと、灌頂といって、散丈という指揮棒のようなもので頭に聖水を注がれたこと、髪の毛を数本切って紙に包んだこと、それが弘法大師の前に永遠に捧げられるという説明を受けたこと、等が幽かに記憶の片隅に残った。得度の「度」とは渡ることを意味する。すなわち「三途の川を渡る」ということなのである。僧名は法脈たる善の字をいただいて「慎善」というらしいが、自分のものであるという実感がない。世俗を離れたという実感はまるで湧いてこないのである。とにかく、生まれて以来経験したことのない光景の中で、慎也はもうろうと夢の中を彷徨っているかのようである。戒律についても、現代的に考えるならばさまざまな問題をかかえているはずである。たとえば、肉食の問題や婚前の性交渉の問題、喫煙や西洋科学の問題等々。それに第一、慎也は札幌に戻ると家の商売を手伝う予定であり、寺の生活をするわけではない。そういったことはすべて師匠の善信にゆだねて、今はとにかく夢の中を進んでゆくのみなのである。

 得度式を終え、龍俊阿闍梨の寺を後にした、善信、慎善の師弟は、いの一番で奥の院を目指した。高野山の逆側にあるために4kmほど歩くことになる。寝不足で、朝早くから緊張の連続であった慎也の足取りは重かったが、善信和尚がどんどんと早足で引っ張って行く。高野山上にはみやげもの店や飲食店が並び、警察もあれば郵便局もある。ちょっとした街道町である。狭い道を観光バスが通り、みやげもの店の前で止まって、団体客をガイドが案内している。いわゆる高野山団参である。慎也は洋服で歩いていたので一般観光客のように映るのだが、善信和尚は黒衣に袈裟をつけた僧侶のいでたちであるために、すれ違う観光客から会釈を受けたり、合掌されたりしている。中には、ふところにお布施を入れてくれる厚信者もいる。自分も観光客として来てみたかったが、すでにお客様というより、お客様を迎える立場の一員になってしまったのである。奥の院の入り口である一の橋についたとき、師匠は「これからお大師さんに会いにいくんじゃよ。」と言って、橋を渡る前に三顧三礼し、般若心経を読経するように指示した。前を見ると、うっそうとした杉林が霧に煙っていて、清浄な空気が張り詰めている。

 昨夜から今朝の得度式までの体験もさることながら、この奥の院の杉木立と凛冽する歴代名士の墓石群には、慎也は開いた口が塞がらないほどに圧倒されてしまった。太平洋戦争中の特攻隊の石碑には「同期の桜」の歌が刻まれている。その他戦没者慰霊の墓石がまず目についた。しかし、奥へ進むとさらに時代はさかのぼってゆく、明智光秀や豊臣家の墓地、親鸞や日蓮の墓地、松尾芭蕉の碑、さらに徳川家の墓地、等々。樹齢数百年という巨大な杉木立に囲まれたこの墓地群の中を歩いていると、千年を超えて「日本人の魂」がここに集っていることを十二分に実感できる。太平洋戦争などごくごく最近のことのように感じるのである。

 人間の営みがさまざまな歴史の変動を刻んで来た日本にあって、この地だけは、弘法大師が入定して以来、微動だにしていないのである。時が止まっている世界なのである。そこには、一人の人間のちっぽけな人生観ではとても計り知れないほどの、底知れぬ安心感がある。2kmにもおよぶこの墓地群を見たものは、誰しも自分が日本人であることの尊厳を感じるであろうし、できることならば、ここに永遠に眠りたいと願うことであろう。また、ここに帰ってきて眠ることができるのであれば、自分の命を他者のために燃焼しつくして生きることに何らためらいがなくなるのも、慎也にはよく納得できた。

 そしてついに、二人は最後の御廟橋を渡るところまでたどりついた。看板に御廟内写真撮影禁止と書かれていて、これからいよいよ日本人の魂の根源の地へ入ることを教えてくれた。「命のろうそく」の話は誰しも聞いたことがある。御廟には千年以上に渡って消えたことのないふたつの灯火が祀られている。「白河法皇の灯火」と「貧女の灯火」である。それを囲むようにして数十万もあろうかという灯篭に明かりがついている。その奉納者を見ると、目立つ場所には「岸信介家先祖精霊」「佐藤栄作家先祖精霊」といった歴代総理大臣の家系のものもある。

 まさに日本人であれば、その命はこの中のどれかの灯火につながっているに違いないのである。高野山とは、日本人の命の灯火を守ってくれている聖地である。そのことを間のあたりに慎也は体験した。そしてそれらすべての命の営みを暖かく見守るように、最奥の場所に弘法大師がいらっしゃるのである。それは墓所ではなく、いまだに生きていらっしゃるのである。この日の善信和尚はほとんど語りかけることもなく黙々と歩みを進め、お経をあげ祈り続けている。しかし、慎也にはあまりにも多くのことが語られているかのように感じるのである。御廟の地下に弘法大師の御影が飾られている。その姿をしっかりと慎也は脳裏に刻んで、自分も法脈の末席に加えていただいたことに、深い感謝の一礼をした。

 慎也と善信和尚は、行きと同じように穏やかな天候に恵まれて、飛行機にて札幌に戻った。夜遅く故郷にたどりついた慎也は、まるで竜宮城から帰ってきたような気分で、両親や親族とともに夕食の宴を持った。何があったのか聞かれたが、説明しようにも言葉にならない。そのうちに急に雨が降り出して、みるみるうちにどしゃぶりとなった。その時である!今までの好天気からしても、この季節からしても考えられないことなのだが、確かに雷鳴がひびきわたり、落雷の壮絶な音響が石山村一帯に響き渡ったのである。「あ!弘法大師が札幌にいらっしゃった!」思わず慎也は叫んでいた。一座の両親親族もあぜんとしていたが、その言葉は、事の経緯や今の状況を考えると決して、うそには聞こえない。むしろ、天のメッセージとしてとらえることができるのである。密教は体験による信仰である。そのすさまじいまでの奇跡がそこに居た皆の脳裏に鮮明に刻まれたのである。

注;登場人物は仮称ですが、歴史的に有名な偉人は本名を用いております。