「阿字の子が阿字の古里立ち出でてまた立ちかえる阿字のふるさと」− 現代社会での密教流の生き方と修行について − 法話第3話です。 今回は私たち密教修行を志す者が現実社会にどう対応しているのか、 一般の在家のみなさまにもひとつでも役に立つようにお話ししたいと思います。
皆さんは、ひらがなの「あ」、カタカナの「ア」、アルファベットの「A」等、文字列の先頭に来る1字が、 世界のどの言語でもほとんど共通に「あ」と発声する事を不思議に感じませんか? 「あ」は感動の音、驚きの音、そしてそれを伸ばすと安心の音です。 これらは密教の聖典を記述しているサンスクリット語の「あ」にあたる先頭文字が起源とされています。 これを日本仏教では阿字と呼び大日如来を表わす種字として扱います。
わたしたち密教修行者はこれを観じて瞑想し、それを念じて呼吸します。修行の根本は瞑想にあります。 いわゆる座禅です。 お釈迦様の悟りの境地「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」にいつも戻るためです。
「何もしないでいても幸せ」 という人は 「何をしても幸せ」 なはず...... 「何も無くても幸せな人」 は 「何を得ても幸せ」 なはず............ 阿字の境地はそんな境地のような気がします。
密教の修行は「休養」です。そして真の休養とは自分自身の生命の時間の貯金であり 子供の心に戻ることです。 そういう空間と時間を家庭の中に持てたらきっと皆がいきいきしてくることでしょう。
冒頭の阿字のふるさとの句はそういう生き方を言っているのであり、 わたしたち密教行者の生活習慣の根本です。 でもただじっとしているのでなくわたしたちはもう一歩進めて「常住の阿字観」という事を大切にします。 それは、仕事をしていても、勉強をしていても、車を運転していても、どんな時にも禅定の境地からはずれない、 心を乱さないという修行です。いわゆる「三昧」の境地で生きることです。 どんなことにも我を忘れて没頭する心です。
ダライラマは、瞑想の段階として、最初は自己反省や問題分析、封印されたストレスの発現段階があり、 やがて創造的な考えや、やる気、至福感、そして如来の境地が現れる段階に続くとおっしゃっておられます。 良いアイディアがよくでる人は何らかの瞑想の習慣を持っているものです。ぜひお試しあれ!
合掌
南無大師遍照金剛
1999年11月21日 高野山真言宗 権教師 岩本欣善
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