お陰さまで、最近当サイトへのアクセス数が増え、 愚僧にとって大いなる励みとなっておりますことに、心より 感謝申し上げます。 合掌 さて、法話第9話をお贈り致します。 昨年の9月のアメリカニューヨークでの テロ事件以来、21世紀の新しい潮流が現出されております。 キリスト教とイスラム教の関係、さらにはユダヤ教(旧約聖書)とキリスト教 (新約聖書)の関係、その象徴が、聖地エルサレムとパレスチナ問題であり、 キリストの十字架処刑から始まり、2000年以上に渡って西洋社会が かかえてきた問題であります。 わたくしは「21世紀は精神性の時代」 という言葉をしばしば用いておりますが、この言葉の根底には、 人類の色々な宗教観の相違が「対立」と「協調」のさまざまな現象となって現われ、 それが世界の大きな潮流をなしてゆく時代だと感じているわけです。 さて、東洋と西洋との関係についてはどうでしょうか。 両者には20世紀に、戦争という大きな試練がありました。 多大なる尊い犠牲を乗り越えて、21世紀の東洋社会と西洋社会は精神的協調と 経済的従属の構造がしばらく続くと考えられます。 東洋哲学の「空」の思想や、瞑想を中心とした生命力発現の実践 理論については西洋社会は大いなる敬意を払いつつ、吸収習得してきました。 また、逆に西洋社会で大きく発展した科学技術に基づく産業と経済体制の進化 について、東洋社会は大いなる敬意を払い、また吸収習得してきたわけです。 今回の法話では、そういう東西世界の融合のあり方を、宇宙物理学や 生命科学等の先端科学と、東洋の思想のエッセンスとしての 「般若心経」の世界とに、焦点をあてて考えてみたいと 存じます。(貧道者の戯論ではありますが。) ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 拙僧は大学で工学修士号を取得しておりますが、現在の先端 科学の進歩の中で、宗教史の根底に迫る分野として、相対性理論や不確定性理論 から始まり、ついに重力と電磁気力、そして素粒子における2つの力を統合した最終 法則の実証が数年のうちに確かめられ、宇宙の創始とそのすべての現象の理論化が 可能になる寸前にまで迫っていることに、大変興味を感じ、驚愕しております。 超ひも理論からさらに膜理論によって、ついに、すべての宇宙における 物理現象が人間の思考によって客観的記述ができるようになり、 予測したり、一部は応用できる新時代になる直前にあります。 もう一方で大変関心があるのが、生命科学の分野です。 人ゲノム開発において、人間の生命現象を遺伝子情報として 記述し、それを医学等に応用できる時代が到来しています。極論すれば 人間という物質の集合体を再生したり自由に操作することができる時代に入り つつあるのです。また、大脳生理学の発達によって人間の感情や思考が、物質と化学 反応として記述できることに、恐れすら感ずることがあります。 ダライラマは、人間の思考が化学反応であるということについてこう言いました。 「人間は化学反応の結果として思考するのか、思考しようという何らかの意志の 結果として化学反応が起きるのか、どちらなのでしょうか。」 科学は思考の産物であり、大脳という人間の器官内で生じたものであり、文字 や記号、図形等の記述によって客観性を価値として成立するものです。 宗教は人間の大脳内だけで起こるものではありませんし、客観的な価値とともに 主観的な世界を有しています。世界的な科学者たちが最終的に宗教への回帰を志向 してきた事例は、科学がすべてを解決できないことを示し続けているように感じます。 「生きている」という事を科学で客観的に記述できたとしても、「生きている ことの意味や価値」について感じることには、科学は無力です。 「般若心経」は大乗仏教の初期(紀元前後)の「空」の思想体系 を凝縮した266文字からなる短い経典です。「無」という語が数多く出て参りますが、 「無」と「空」は異なります。「無」はゼロの世界で、「空」は無限の世界です。 「無」は存在の仮想性を示し、「空」は存在があるということをすべて包含する 「うつわ」を示します。部屋という存在は確かにありますが、その中は 「空間」であって、そこに存在するものは仮りのもの(本来、 「無」に帰結するもの)であるということを、古代 インドの思弁家は「空観」として感じたわけです。 このお経の説くところは冷徹に客観的な科学性を持っていると、 現代の科学者たちは気づいております。物質というものを細かく砕いて ゆくと限りなく小さくなってゆき、最後は力とエネルギーということに行き着きます。 また、物質の集合をどんどん広げてゆくと宇宙となり、そこで起きていることも結局 力とエネルギーという記述で言い尽くされてゆきます。まさに現代物理学が記述しよう としている最終理論は、結局この力とエネルギーということに行き着きます。 それはある意味では宇宙の意志と言っていいのかもしれません。 そう考えることによって、般若心経の説く宇宙観に見事に 通じてゆくことになるのです。 ただ、般若心経はそういう客観性とともに「生き物」としての主体性を 与えてくれるものでもあります。空海が著した「般若心経秘鍵」では、 このお経そのものが、菩薩の「呪」(真言)であると説かれています。 すなわち、その主体者の存在と主体的体験性を重視しています。「ギャアティ ギャアティ ハラギアャティ ハラソウ ギアャティボウジ ソワカ」の最終句は サンスクリット語の原語の音訳で、明らかに「呪」です。「客観的記述」はロゴスである のに対して「呪」とは感情や感覚の象徴化された音声であり文字であり、「パトス」と して捉えることができます。ただし、それは凡夫の感情や感覚といったレベルを超越 した霊的なレベルのものですから、仏教的には「真理」という表現になります。 この「真理」ということにおいて、主体と客体の区別が意味をなさなくなり、 「一如」、「不二」、そして「平等」という生存感覚に 到達することができる訳です。 以上、文字の記述という手段によって、 皆様にお伝えしてきましたが、文字を超えた 感性をご理解いただきますことを切に念じております。 どうか声に出して「感じて」ください。 「ギャアティ ギャアティ ハラギアャティ ハラソウ ギアャティ ボウジ ソワカ」 最後に一言、夫婦以外の人工授精やクローン人間、あるいはクローン内臓製造、 遺伝子操作等の倫理問題について、「人間を機械や道具にする技術」に頼って、 「真理」を見失い、迷妄の道を人類が選択することを強く危惧し、「真理」はそういう事 に快い結果は与えないということを、「空観」の至福に住む者から警鐘させて いただく高慢をお許しください。 百煩不休の愚僧の拙論をどうかご容赦のほど....... 21世紀が「精神性向上」の時代でありますように..... 南無大師遍照金剛 合掌 2002年2月21日 高野山真言宗 権教師 岩本欣善 |