皆さまにはいつもお待たせして申し訳ありません。 法話第8話をお送りします。 皆さまは、世の中の価値観が多様化し、何が真実か、何が正しい 解決か、なかなか見分けがつかない場面や、解決法がわかっていても実行 する勇気がない自分にいらだつ場面を、最近多く体験していませんか? 確かに統計データや科学的分析を通して正確な情報が集まっていた としても、どうやって「幸福になるか」「良い生き方をするか」 さらには「良い国にするか」「良い世界にするか」という方法 が見つかり、それを実行できるでしょうか? お釈迦様の有名な説法にこうあります。 「矢を受けて瀕死の兵士を前に、矢を射た者が誰か、 刺さってから何時間経っているか、どの程度深いか、痛さは どうかなど質問する者は物事を解決する者ではなく、即座に矢を抜き その痛さを共感する勇気を持つ者こそ物事を解決する者である。」 ということです。 まさに今の日本の経済政策、外交政策、教育政策等々、 国の根本が迷妄しているのですから、わたしたちの生き方もそういう 場面が多くなるのは当然かも知れません。これを全て総理大臣ひとりの 才能に帰することは大変危険なことです。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ さて話を仏法に戻して「真理はどう語るか」 ということを弘法大師の密教思想から考えてみましょう。 弘法大師は、当時の奈良仏教を中心とする唯識思想、あるいは 天台の法華一乗思想に対して、自らの真言密教の教義を、対立する という立場はとらず、これら大乗仏教(顕教)は密教に含まれるという 総合性の立場をとりました。唯識思想とは、瑜伽(ヨーガ瞑想)修行に おける心理分析と仏性を得る方法を説く仏教心理学、仏教論理学 であり、当時は仏教思想の最終理論ともいえるものでした。 阿頼耶識という浄化された深層心理の 発現を瞑想の最終目的(成仏法)とします。 眼耳鼻舌身の五識の他に表層意識の第六識があり、 その上に第七識として末那識という自我の欲望に基づく無意識があり、 そのさらに奥底に生命の本源たる善意の第八識(阿頼耶識)が存在します。 これはユング心理学にも通ずる深層心理を解くものであり、人間の 気の遠くなるような進化の過程での記憶をも含んだものです。 弘法大師も唯識思想の根本経典たる「成唯識論」「瑜伽師地論」等 の価値を十分に認めています。また、ライバルたる最澄が法華経による さらに成仏へのより短い経路を示したこと(法華一乗思想) にも大いなる価値を認めたのです。 唯識によって色(物質)の空性(相対性)は悟られました。 しかし、密教では「意識すらも空(相対的)なるものである。」と解きます。 唯識による説法は方便(手段)である。しかし、唯識等の大乗仏教の境地を学ぶことは 真理を知るための非常に重要な修行であるという解釈を持って唯識思想を包含した中観 思想を体得したのです。これは現在のチベット仏教と全く同じ体系であり、 真に修行を積んで秘奥の真理に到達した者だけが体得できる境地です。 これを密教では大日(法身)説法といい、 方法論としての説法を因分可説(病の原因を分析説明する説法)、 悟りそのものは論とならないことを果分不可説といいます。 わたしなりに解釈しますと、無垢の赤ちゃんは生命原理そのものに よって生きているので「病気の治癒法」を教えることは無益である。 愛情の表現そのものに没頭して(三昧の境地で)生きればよい。しかし、 病気になることも自然の原理であるから、その時はじめて「治癒法」、 「予防法」を教える必要が生じるのです。 今回はいささか専門的な話になってしまいました。 修行も満たないわたくしごときが理解できるものでもありません。 しかし、弘法大師の偉大さは、全て俗なるものも含めて世の人の営み のひとつひとつが真理の体現であって、そこに真理の法則(大日如来のはからい) が必ず作用しているという深遠なる愛情(願い)をその身を持って示したことです。 さしたる仏教知識もなく日々の生活に奔走する凡夫たるわれわれであっても、 すべてわたしたちは弘法大師(そして仏陀)のご縁をいただいているのです。 「真理は語らない」しかし、「真理を悟った祖師とのご縁を大事にする。」 そうすることによって「真理を見分ける力」は、適材適所の各人に必ずや 与えられ、日本そしてアジア、ひいては世界を必ず正しい方向へと導いて くださっているとわたくしは観じ、安心しております。 南無大師遍照金剛 合掌 |
2001年5月10日 高野山真言宗 権教師 岩本欣善