今回はこんな場面について考えてみましょう。 信号がまだ赤ですが、もうすぐ青になることがわかっています。 左右とも車は来ていませんし、急病の母の看護に急いでいます。 さて、信号無視をする事は仏の道に反することでしょうか? これが、ただ友人宅に遊びに行くだけというなら法律に従うべきですが、 世の中には法律だけでは、裁けないことがたくさんあるものです。また、 すべて細かいところまでたくさんの法律を作れば、すべて正しい道が 行われるのでしょうか? 大日経には、「信仰は、大悲を根とし、菩提心を因とし、方便を究境とする。」 と書かれています。一方、弘法大師は、 「天下国家などひと時の幻の姿、宇宙の原理には太刀打ちできない。」 という途方もなく大きな考え方を示し、時の嵯峨天皇をも密教へ帰依さたのです。 何からも心の抑圧を受けることのない自由人であったからこそ、人間の本質を説く ことができたのでしょう。 「方便で生きる」とは、何物にもとらわれない本質に基づいた生き方を言います。 「うそも方便」ということわざばかりにとらわれると、何かいつもごまかして生きて いるようにとってしまいがちですが、人の作った決め事よりももっともっと人の道と いうものは奥の深いものであると考えると「方便」の重要さがわかるのではずです。 人の世の決め事を作るのも人間ならば、 それを守ったり破ったりするのも人間です。 そして、人間は自然の原理法則に支配された生き物であるのです。 「人は、百年も生きるかどうかなのに、千年万年も残る業を為す。」 私たちが捨てたごみや産業廃棄物、森林伐採や海洋汚染、 私がそしてあなたが、たとえばファミレスで食べ残したハンバーグ、 古くなったので捨てた携帯電話やパソコン、テレビの待機電力、クーラーのつけ過ぎ、 一人一人の小さな贅沢の積み重ねが、国家としては大きな業となって何代も残るのです。 仏様は,法律では解けない「環境問題」という 難題を私たちに今課していらっしゃいます。 便利さが何もなかった以前に戻れる素朴な心と、 私たちの作り上げてきた文明を大事にする感謝の心、 そんな人間の本質を今私たちは取り戻そうと感じ始めています。 最初に例として上げました信号無視の話。 逆に目の不自由な方が赤信号を歩いているとしたら、 青信号であってでもあなたは車を止めるはずです。 地球環境問題とはそういうことです。 国際経済競争や個人消費の問題、教育問題、等々もそうです。 法律や国の政策だけでは解けないことを、もっと本質的な視点、 で考えてみましょう。あなたは、キリスト教徒でもないのに、西洋文化 の表層に浸っていないでしょうか?子供に形式的なしつけを押し付けて、 生き物の親としての本質の愛情を忘れていないでしょうか? 自然の法則そして仏の道に謙虚な心で考えてみましょう。 私たち日本人の生活が本質からずれている点をじっくりと.......。 南無大師遍照金剛 合掌 2000年10月21日 高野山真言宗 権教師 岩本欣善 |